コラム/2014-02-11
欲を持つ事はいけない事?
僕自身以前「ありのままの自分を認める方法」という記事を書きました。
ただ僕の考えでは「ありのままの自分を認める」事はそれ自体が目標ではなくて
自分の欲求を満たす為の準備段階だと思います。
過去に囚われたり、未来への不安に押し潰されそうになったり、他人と比較して
自己否定してしまったり・・。そんな自分のままでは未来へと進む事ができない。
運転に譬えて言うと「バックに入ってしまってる車のギアをニュートラルに戻す」
→その為に一旦「ありのままの自分を認める」段階が必要なのだと思います。
でも「ありのままの自分を認める」事だけを目標としてやり続けると
いつまで経っても前へ進めないでしょう。(※だってギアはニュートラルのまま
ですから)
では、前へ(未来へ)進む為には何が必要なのでしょうか?
ー
僕が思うに、未来へ進む為には「欲」が欠かせないと思います。
仮に人間が生きてる事の意味付けをするとすれば
「様々な経験を通して学び、成長し、自己実現を果たす」というのが僕の考えです。
「いや、私はそんなふうには思わない。平凡な幸せで十分です」という方も
いらっしゃるでしょう。
ではこう言ったらあなたにも当てはまるのではないでしょうか?
→「私は自己満足を得る事を常に目指している」
例えば、あなたにとって「平凡な日常を得る事」、「今の苦しみから抜け出す事」が
自分を満たすと感じるからそこに向かおうとする力が働く訳です。
つまり欲(求)を満たす為ですよね。
でも、もしあなたが満たすべき「欲」を持っていなければどこに向けて走り出したら
いいのかわからないので、ギアがニュートラルのままで車は動かないでしょう。
ですから僕は「ありのままの自分を認めたら」(※前へ進む為の邪魔にさえ
ならなければ完全に認められなくても構わないと思います)「欲を持つ」事を
お勧めします。
でも「欲って言ってもなあ。私の場合”我欲”しかないからなあ」と
欲を持つ事に抵抗を感じる方もいらっしゃるかも知れません。
ただ僕の考えでは「我欲でも何でもいいから、前に進む事」
が大切だと思います。(車を停止させたままでは何も変わりませんから)
最初は「我欲」でもいいので前に進んで行っても様々な経験をして
そこから学ぶ意識を持ち続けていると、自ずと他者への感謝や利他的な欲に
変わってゆくのではないか?と思います。
例えば、お釈迦さんは、自分が感じた四苦八苦から逃れる術を求めて家族を捨て
王子としての責任を放棄し国を捨て修行の道に入った。
→失礼ですけど”我欲”の固まりの自己中人間ですよね?(笑)
でも修行の途中で色々な挫折や経験を積んで、「人々にこの教えを広めて行こう」
と決意され、我欲が利他的な欲に変化した。
まあ、言ってみれば「小さな欲が大きな欲に変化した」という事ですね。
ただ、我欲がいつまで経っても利他的な欲に変化しない人も世の中にはいる
でしょう。
そういう人達は大抵「ありのままの自分を認める」という点が欠けてるまま
強引に突っ走っちゃった(笑)のではないかと思います。
→「お金や権力が無いと私には価値が無い」等と、ギアがバックに入ったまま
或いはローに入ったまま全力でアクセルを踏む・・・。
いつか何かにぶち当たったり、壊れますよね?(笑)
一旦ニュートラルに戻したらいいのに。
でも「ありのままの自分を認める」事をなさって来た方は、
今ニュートラルですので、ギアをどこへ入れても(どんな欲を持っても)
大丈夫だと思います。
さあ、思い切って車をスタートさせてみてはいかがですか?
コメント